「変態」と「素人」 |
「変態」と「素人」、なにもこれから風俗店の話をしようとしているのではない。 流行語から世相を読み解くという態度。今回の論文の面構えはそのようなものに近い。従って、この併置されている「変態」と「素人」という言葉は流行した、ということになるのだが、私が注目するところの両者のそれらが大挙した時代はそれぞれ異なる。 「変態」は、大正末期から昭和初期にかけて発行された幾多の雑誌で用いられ、またそのタイトルにも多く使用された。個人研究発表のテーマであった梅原北明はそのなかで重要な位置を占める人物であった。 「素人」については、要するに一般人といったような意味合いとして構わないのだが、ここでは少し実感を加えながら述べていきたいと思う。具体的に示せば、そういった直接的な命名ではないにしろ、例えば新婚さん、ストリート、読者といった様々な名称で、彼、彼女達は、テレビや雑誌でよく見受けられる。「読者モデル」はいまや定着したし、テレビでは、「素人」が主役の日本テレビのその名も「ド素人」という番組がある。テレビ画面に「素人」が現れるのはさして最近のことではないかもしれないが、その「素人」の使われ方が変化したのではないだろうかと察するのである。そして今論文は、変態という視座に加え、そのような推測、というより「素人」が「流行った」という視点を、不用意にも思想や建築のある局面において適用して、考えてしまおうという強引な試みである。 *「変態」のルーツ 「ユリイカ 宮武外骨特集」に納められている「変態の探求 〜西の外骨、東の北明〜」で、その著者松沢呉一が、大正から昭和初期にかけて、タイトルに「変態」という語句を用いている雑誌、本が数多く刊行され、その内容は性風俗研究やエロ小説の翻訳書、性科学研究であったと記しているように、繰り返して述べれば変態という語が常套句として流行ったという事である。そこで、ここでは話を展開させる前に、「変態」という語句のルーツについて述べて置きたい。そこでは当時の日本における独自な「変態」の意味合いが示される。 秋田昌美著の「性の猟奇モダン」では、クラフト・エビング(ドイツの精神病理学者)が著し、1886年に刊行された「サイコパシア・セクシャラス」(性の精神病)の紹介が、日本における変態という言葉の定義に影響を与えたとされていた。では、その「サイコパシア・セクシャラス」とはどのような内容か。「性の猟奇モダン」から要約引用して記したい。 「サイパシア・セクシャラス」は、膨大な症例を網羅していることもあり、変態研究の古典として、性心理学やエロ・グロ系風俗文献までさまざまな領域で流用、咀嚼されることとなる。また、症例として、淫楽殺人、屍姦、婦女暴行、動物虐待、鞭打ち、食糞、陰部露出、強姦、幼児虐待、近親相姦、動物姦が挙げられている。また、著者は性倒錯を脳の障害にもとづくものと考え、性倒錯を、サディズム、マゾヒズム、フェティシズム、及び同性愛に分類している このような分類、そしてサディズム、マゾヒズム、フェティシズムといった言葉がこの著作によりおそらく始めて日本に流布したのであろう。他方、前述にもあった松沢吾一は、「変態」という言葉の始まりを明治後期であるとし、さらにその語源について、次のように述べられている。 「心理学が日本に紹介された際に、ノーマルを常態とし、アブノーマルを変態としたものらしく、(中略)翻訳用の完全な造語と思われる。」 では、学術用語であった「変態」は、その後どのような道筋を辿るか。再び、「変態の探求 〜西の外骨、東の北明〜」から引用したい。 心理学の専門用語として狭い範囲で使用されてきた“変態”をより広い範囲で使用しだした第一の貢献者が田中香涯であった。(中略)そして、それまであくまでも性において使われる傾向にあったこの言葉の意味を意識的に拡大し、流行語に近いところに育てた貢献者が宮武外骨ということになる。さらに、この流れを決定づけたのが梅原北明であろう。」 私がここで最も強調したい点は、日本の変態観はエビングのような病理学視点を有していなかったという事と、それがまた同時にその意味合いを拡大したという事だ。具体的に示すために、宮武外骨そして次に梅原北明の言及を以下に孫引きする。 「変態心理、変態性欲などといふ成語は、普通心理、普通性欲でない異常の心理作用、性欲発作を説くのである、されば変態知識といふ新語は、何を意味するのであるか、これは容易に想察し得るであらうと信じて居た、然るに之を変態心理の知識、変態性欲の知識を云うものと思って居る人々があった、それは無理もない憶測であるが、本誌の標題を変態知識というのは普通知識ではない異常知識の事で、心理や性欲の変態を説くのが主旨ではない、要は変態人物の温故的随筆で、古風俗誌研究に偏したものである。」(宮武外骨編「変態知識」創刊号 「変態の探求 〜西の外骨、東の北明〜」より孫引き ) 「変態風俗とは・・・その時代時代の風俗の中でもことに之はきわ立って“変わっている”と思われるものを指していうのであって、普通風俗史の余り取り扱わない事柄である。」 (梅原北明編「変態十二史」 秋田昌美「性の猟奇モダン」より孫引き、以下も同様である。) 例として次のようなものを挙げていた。 「捏歯と産小屋の習慣、文身と情死と殉死の風俗、農業俗信と嫁樹の奇習、男がお産のまねをする風習、風呂と見世物風俗、女子共有の風俗、間引き(初生児殺し)と堕胎の風習、新郎虐待と嫁盗みの風俗、産屋に蟹を這わせる風習」 松沢吾一も指摘するように宮武外骨による「変態」の用い方は、「奇妙な」「もの珍しい」といった類の意味を含み、梅原北明のそれも同様である。ならば、なぜそのような拡大解釈がなされたのであろうか。そのような問いに対して、例えば伝統的な性モラルの相違を検討するのも有用である。半田良輔による「別冊宝島 20世紀の性表現」では、キリスト教的モラルの下で、ローマ教皇の主治医ティソーが自慰諸病根源説を展開する「オナニズム」(1760年)を発表するなど、18世紀から19世紀にかけて、自慰が諸病気の根源とされ、数々の啓蒙書が書かれていた事や、さらに、ペニシリンが開発されるまで、この時代は、淋病や梅毒などの性病への恐怖が流布していた事を事例として、西欧の性欲への「恐怖」が解説されていた。また別の箇所では、エビングの研究には、「性犯罪の増加に悩む当時のヨーロッパ都市事情」があり、「それに対する法医学な対処を目的にする側面」があったとも指摘されていた。それらが、日本の(江戸の)性モラルや社会状況と極めて異なる状態にあった事はいうまでもない。同性愛が公然と行われていたのは有名な例だが、秋田昌美が「江戸以来の“正常”と“異常”の混濁とした性の銀河宇宙の伝統」というような日本の性モラルが、「変態」の拡大解釈を生み出したのだろう。しかしながら、ここでは、文化的、モラル的背景をいくばかりか踏まえたうえで、最初の問いに対する思案の視点を少しずらしてみたい。 *「変態」への眼差し 宮武外骨は、赤瀬川源平が著した「学術小説 外骨という人がいた!」によって再考、注目がされた人物である。というのも、外骨の政治批判や風刺が巧妙にして卓越であったからであろう。例えば、日露戦争の一ヵ月後に「滑稽新聞」の紙面を伏せ字だらけにして、検閲の被害を受けたかのような構成をし、さらに残された文字を集めると、「今の軍事当局者はつまらぬ事までも秘密秘密と云うて新聞に書かさぬ事にして居る・・・」(鎌田慧 「ジャーナリストの責務」朝日新聞 2002年4月10日 より孫引き)である。極めて「粋」な手法のように思われる。松沢吾一の「変態の探求 〜西の外骨、東の北明〜」では、梅原北明が発禁処分を外骨と競い合うような内容を打ち出していた宣伝文句について言及されていたように、梅原北明はそのような外骨から、様々に大きな影響を受けている。ところで、私はここで、「粋」な手段の一環として変態という語句がもちいられたのではないかということを、梅原北明に焦点を当てて述べたいと思うのである。 梅原北明は、幾多の変態雑誌を発刊させた人物であるが、彼の思想性は、その時代や、アナキズムに傾斜したり、片山潜と親交していた事もある彼の略歴を検証する事で、明確になるであろう。が、ここでは「近世社会大驚異全史」の付録の一つとして刊行された「近世暴動反逆変乱史」などの他の変態雑誌とは少し異質に見える彼の仕事を軸に、鹿野政直の解説によりながら、彼の活動の真意に触れたいと思う。つまり、そこから「変態」はなぜ学術用語から意味を拡大させたかという問いに向かいたいと思うのである。 例えば、興味深いのは、まだ彼の最初の雑誌「文芸市場」を刊行させる前の段階に翻訳しヒットとなった「露西亜大革命史」のはしがきによせた北明の言及である。 「・・・ただ俺達は露西亜の革命を偉大なる一つの歴史として、之れを見、そして記憶し、 そして其れが為せる様々の現象を学究的に研究する迄の事だ。(中略)露西亜における唯 一の救い主は革命であった。併し、現在の日本の社会常態を救ふ唯一の活路は必ずしも 革命であるとは限るまい。誤解されては困る。・・・」(鹿野政直 「天下擾乱への期待〜 その素顔と仮面〜」から孫引き) 鹿野政直はこのような言説から、北明の「文藝市場」から「変態資料」への歩み、つまりプロレタリアート雑誌からエロ雑誌への変遷を「状況打破への模索によるもの」としていた。「現在の日本の社会常態を救ふ唯一の活路」として変態雑誌を創刊したという指摘は、奇抜に映りつつ面白い。しかしながら、五年余りという北明の予想外に短い怒涛の出版活動期間の最後には再び、それまでのエロ路線から、社会派路線への転換がみられる。それは鹿野政直の指摘の根拠でもあり、その中の一つが、「近世社会大驚異全史」である。それは、新聞記事の膨大な採録によって構成された厚さ12.5cmmの圧倒的な全史であり、その序において北明によって述べられた新聞記事の蒐集についての箇所がある。 「・・・従来“歴史”と渉する大半の著述は所謂御用学者によって政府のご都合主義に迎合し、或いは支配階級の利益を庇護するために粉飾されたもので、装飾なき赤裸々な国民的歴史なんてものは、それは望むことそれ自身がすでに一種の徒労であると云ふ感じを与えています。それが不愉快で、終始一貫飽迄もあるが儘の社会層を反映せしめんと努力したところに、本書の苦心があるのです。・・・」 新聞記事の蒐集という方法は外骨も共通する。北明は、「近世社会大驚異全史」が公刊される時点で十年もの間、その蒐集に入れ込んでいたようでそれは歴史の再構成のための手段としても考えられるであろう。その意味では、「明治性的珍聞史」も新聞記事の採録とその体系性でしめした「あるが儘の社会層」であったのかもしれない。(「明治性的珍聞史」はその採録した新聞記事の日付や挿絵で構成されている。内容を示すために目次を幾つか引くと、「金箔を陰嚢に塗り、年増がうらやむ萬吉の物、美少年の智八十八婆を犯す、オーライオーライ裸ダンスをやるよろしい、夫婦の女郎買い、神様も案外良かったそうな」である。) さて、「近世社会大驚異全史」の付録「近世暴動反逆変乱史」について、その内容は目次から引けば次の通りだ。 「佐賀変乱史、前原一誠と長州萩の変乱、敬神党暴虐史、高島炭鉱騒擾史、竹橋騒動騒動史〜日本最初の軍隊の暴動〜、東洋社会党秘史〜日本最初の社会主義党〜、秩父大暴虐史〜貧乏借金党〜、足尾鉱毒事件、京城大変乱史」 解説によれば、「近世暴動反逆変乱史」は「士族反乱関系、自由民権運動関係、労働者関係、植民地関係」といった、明治期の反乱の全構造を視野におさたものだ。ここまでくると北明の思想性を感じずにはいられない。鹿野政直がいうところの北明の「天下擾乱への期待」をみてしまうのである。そのような見方に対して、例えば斉藤夜居は「猟本漁奇」のなかで、「左翼系とみられた梅原北明の文芸至上社が突然軟派出版に”変身”したことも思い出されるが、そこまで考えるのは勘ぐり過ぎであろう。」と記し、鹿野政直の論考の対極に位置しているが、私としては鹿野政直のいささか特別な英雄視を保留しながらも「左翼系」としての北明を考えてみたいつもりである。 そして、そのような視座において、「変態」という語句は、例えば発禁処分で顕在化する抑圧と抵抗という単純な構図の中で、それが有する異常性という意味合いから当初の西欧の病理学的視点を日本の性モラルを背景としつつそぎ落とされ、愉しみを醸し出しながらも用いられたのではないかと考えている。しかしながら、一方でそれは正確に言い得てはいない。資料、文献に目を通して覚えるのは、革命の意志に、抵抗の意志に燃える様子というよりは、彼らの奇怪なもの、異常なものへの極めて強い興味や関心であり、そこからは見世物的要素すら感じられる。鹿野政直は明治時代を「演説と新聞の時代」と形容していたが、それはやはり、文明開化や条約改正問題(治外法権や関税自主権)、自由民権運動によって人々の情報への希求が広がっていったからであろう。そのような近代化への潮流の経過の中で、外骨や北明は当時の問題意識を共通認識にしながら、極めて近代人的な眼差しで新奇で好奇な態度、眼差しをもっていたと推察できる。それは、彼らが奇ないし変態とする対象として、或いは前近代としてといっても差し支えないが、例えばお歯黒の風俗を挙げることなどからも考えられるからである。そして、重ねて記せば、彼らは当時の問題意識を抱きながら今でいうところのコピーライターや編集者的な力量を発揮していたのだ。「滑稽」や「頓智」、「ハート」、「ザックバラン」、「スコブル」、「面白半分」といった外骨の言葉に対しての敏感なアンテナが西欧からの変態という語句を今まで述べてきたような形で汲み取ったのである。留意しなければならないのは、「猥褻」な事柄が、権力的なものとの緊迫した関係を喚起できた時代において、これまで挙げてきたような手段としての「変態」の使用は可能であったということだ。 *むすび 鹿野政直は、近代日本において抑圧されていたものが「“土俗”と“性”」であり、その結果として大本教があり梅原北明があると記していた。彼によれば、性は「人間の解放への思考を一条の道をつける部門」、「家族制度をゆるがす可能性を秘める部門」であり、「政治的自由を求める思想とならんで抑圧の対象となってきた」のである。この指摘に高次な疑問を投げかけるのはM・フーコーである。フーコーは「知への意志」で、性科学や精神分析を含め、なぜ19世紀にこんなにも多くの性についての言説が語られたかを問う。愚鈍な単純化を恐れずに記せば彼の見解はこうである。 性は抑圧されてはいない。「性と権力の関係を抑圧の関係として語る」ことは「言うに易しい」上に、「語り手の利益」つまりそれだけで「ラディカルな侵犯行為の様相を帯びる」からである。国家はその国力を確保、増強するという意味で人口を主眼に置く。そしてそれはすなわち性であり、人々の「生」である。尚、「生に関する権力」は「人間の身体の解剖−政治学」と「人口の生−政治学」という形態によって発展し、「性的逸脱を規制する規律」や「生殖=人口増大」に関わるのである。重要な事は、それらは語られる事によって強固に成立するということあり、従って性を肯定したり、積極的に語る事は、まさに人々が「性の装置」の網の目にからみとられていることを露呈するのである。 近代における「生」や身体の変容は、例えば日本人の歩き方の変容などは、三浦雅士の「身体の零度 〜何が近代を成立させたか〜」で周到に提示されていた。そこで浮かび上がるのは、フーコーがいうような絶えずどこでも生産される無数の「権力」の概念である。そこで、フーコーの指摘を日本において当てはめて、なぜあれほど変態が用いられたかと問う事は、フーコーの指摘していた西欧の歴史と日本のそれを比較することであり、またこれまでの論考を新たな角度から照らすことになろう。「ユリイカ 宮武外骨特集号」におさめられた川村邦光による「ワイセツの詩学/政治学」は、外骨が西欧の性についての言説とは拮抗するような、「言語に囚われ、形式に囚われ、虚偽に囚われる」(同著より外骨の発言の孫引き)ことの解体による性の「神秘学」を打ちたてようとしていたとしており、まさしくそのような問いに関してのものである。これまでの「変態」についての論考も、フーコーの指摘に目配せしながら、結局は絡み取られたとしても、そのなかで日本の独自性、つまり意味合いが拡大されていたという事を考慮してみるということも可能である。私は、フーコーの卓越な指摘を後世に生みだされた訓戒のようなものとして理解している。 また一方で、「変態の時代」は、日本のダダや社会主義、アナキズム、労働運動といった抵抗が息吹いていた時代でもあり、それは互いに相関していた。現に、梅原北明は片山潜(社会運動家、労働組合運動、社会主義運動を指導した)の下で、関西で被部落差別民開放の運動をしており、また宮武外骨は民本主義を主唱した吉野作造との交流があった。加えて、神谷忠孝は「ダダイスト宮武外骨」で、大正十三年で退潮してから分化していった日本のダダ運動の系譜を、従来認められていた「ニヒリズム探求」に向かった方向と「アナキズム」の方向に付け加えて、さらに梅原北明らの方向があるのではないかと宮武外骨を軸に分析していた。このような時代を踏まえる事で変態についての問いもまた輪郭を明確にするであろう。そして変態の枝葉を広げて考えてみたい。例えば、北明の変態観を通低する「あるがまま」という市井への態度である。 当時、労働運動は、片山潜らが社会民主党を結成し社会主義の方向へ、加えて彼らと僚友であった横山源之助らの大日本労働総合本部へと二分化していた。横山源之助の「日本の下層社会」によればそれは「より低い労働者的なレベル」から労働運動を行うものであったというが、結局敗退する。一方で社会民主党は知識人を中心に突出していくのであるが、これは要するに上からか下からかという問題で非常に興味深い。この国で下からという事は未だかつてあったであろうか。「変態」からフーコーの指摘を、そしてこのようなトピックを抽出、留意して次の項目、「素人」に移りたいと思う。 *イヴァン・イリイチ「専門家の時代の幻想」について イヴァン・イリイチはメキシコを拠点として、一貫して産業社会批判、文明批判を行ってきたオーストリア生まれの思想家である。彼が著した「専門家時代の幻想」、その名前からして今回の論文に関係が深そうだが、そこでは20世紀中葉の時代は「人々の能力を奪う専門家の時代(The Age of Disabling Professions)」と形容されていた。そして、「専門家的権力(professional powers)」とは「処方を書く特権という特殊化された形態」で、「人を顧客と定義し、その人の必要を決定し、その人の処方を申し渡せる権威」を特徴とするのである。また彼の別の著書「シャドウワーク 〜生活のあり方を問う〜」では、「専門家的権力」が「経済が市場経済として、社会から“離床(disembed)”して、逆に経済システムの中に人間社会が埋没するという状態」において、「市場を媒介に産業的な制度化」を専有的に推進するとされていた。彼は、そのような「専門家」について、主にテクノクラート(技術官僚)を挙げて説明していたが、彼の重要な論点は人々の「必要」がそれら「専門家的権力」に規定され、「自己遂行型」と「他者指導型」の生産様式ないし「自律的=共同体生産」と「他律的=産業生産」の相関関係の均衡が崩れ、「社会における良好状態」、例えば「価値ある経験」、「住居上の取り決め」などが保てないという事だ。イリイチはそのような「専門家の時代」を看破すべく、「幻想」を記してみせるのである。 また、彼は「ヴァナキュラー」なる概念を提唱する。それは「“根付いていること”と“住居”を意味するインド−ゲルマン語系と言葉に由来」し「ラテン語としてのvernaculumは、家で育て、家で紡いだ、自家産、自家製のもののすべてにかんして使用されたものであり、交換形式によって入手したものとは対立する」ものであり主に「風土的」と訳される言葉だ。同時代建築研究会著の「現代建築 〜ポストモダニズムを超えて〜」では、「人びとが日常の必要を満足させるような自立的で非市場的な行為を意味する語」として説明されていた。従って、イリイチの文脈にそっていえば、「素人」は、日常的かつ非市場的領域で現出するといっていい。ライセンスは権力が発行するのだ。 「専門家の時代」において、人々の自律性が失われ、その「必要」すら規定されている、という類の指摘は、これまで数多く言われてきた。 マルクスは「製品の製造は、消費財を作り出し、消費の仕方を作り出し、消費衝動までも作り出すといえるのである」という。バタイユは、「未開社会」において、「過剰」がポトラッチという供犠によって「濫費」ないし「消尽」されるとした。資本主義社会においては、「過剰」は転換し拡大する。或いは、それぞれ私たちの生活そのものが「過剰」を処理するものとなっているといったほうがいいのかもしれない。であるからこそ、ボードリヤールがいうような「消費社会の神話」があるのだろう。そこでは、イリイチが「真価」とみなす「使用価値」の重視という主張こそが幻想ではないかと思えてくる。そこでは、もはや物の有用性の判断も、もはや混濁して自立的ではないからだ。「ヴァナキュラー」からは閉域を形成する一種のエコビレッジのような領域を創造してしまうが、イリイチのような生活のあり方を問う作業は今もって盛んに模索されている状況であろう。 ここでは、イリイチの指摘を裏返し、「素人」は日常的かつ非市場的領域で現出するということに気を留めておいて次に進みたい。 *バーナード・ルドルフスキー「建築家なしの建築」について 「建築家なしの建築」(Architecture without architects)とは、1964年から65年にかけて、ニューヨーク近代美術館でバーナード・ルドルフスキー(1905年にウィーン生まれ、建築家兼エッセイスト)によって開かれた展覧会、及びその際に出版された彼の著書をさすものである。 「建築家なしの建築」は、その副題でもある「系図なしの建築についての小さな手引き書」(A short Introduction to Non−pedigreed Architecture)によって、その性格をうかがい知ることができる。掲載されている数多くの写真はどれも世界各地の無名の工匠による風土的な建築である。いくつか例を挙げると、「建築家としての自然」という項目では、熱帯アフリカのバオバブの樹をくりぬいて、そのまま使用されている住居や、また、「杭上住居」の項目では、魚釣りの足場としての、そして樹上住居としての、ルドルフスキーがいうところの「実用的な」複数のピロティ建築、加えて、西パキスタン、シンドの低地域における全住居が一貫して持つ、空調設備など、ユニークな実例が紹介されている。 そして彼は、諸所の「これまでの建築史の正系から外れていた建築」に対して、各々の状況に応じて以下のように言い表している。「風土的(vernacular)」、「無名の(anonymous)」、「自然発生的(spontaneous)」、「土着的(indigenous)」、「田園的(rural)」である。 近代の建築の普遍主義的な「国際様式」、つまり「インターナショナル・スタイル」という言葉が、1932年にニューヨーク近代美術館で開かれた、ヨーロッパの新しい建築を紹介する展覧会の際に書かれた「インターナショナル・スタイル」というカタログ本に由来していたのであるが、ほぼ30年後には、同じ場所で、その概念を否定するような内容の展覧会が行われたのである。グロピウスの「工業技術の進歩発展が、個人や民族の相違を超えて、広く人類の建築の国際的な共通面を広げていくであろう」という提唱を考えると何か皮肉めいた結果だ。 「建築家なしの建築」の意図、ないしその性格は、1960年代ころに始まる近代に対する反省の流れを表している。 ルドルフスキーは、「実用的な」ピロティ建築を掲載することで、コルビジェにあてつけるかのように、近代の建築に苦言を呈しているような一面をみせた。彼は、モダニズムの進歩史観について憂い、オランダの歴史学者、ホイジンガの以下のような一説を引用している。「新しい発見や現存する手段の改善が、必ずより高い価値とより大きな幸福をもたらすと期待するのはまったく単純すぎる考え方だ。・・・・・・文化が現実的、具体的な進歩によって崩壊することもあるというのはけして逆説的ではない。」 彼は別の箇所で、それまでの建築史が「特権階級の、特権階級による、特権階級のための建築物、つまり真の神々や、いかがわしい神々の神殿、財力にあるいは血統に支えられた王族たちの館の傑作選集にすぎず、庶民の住居については一言も触れられてはいない」ものであったと指摘している。そこで、正統的建築史では重要視されなかった、共同体による事業が、「建築家なしの建築」において強調されるのである。その際の共同体建築という概念については、ピエトロ・ベルスキの「ニ、三の知識人や専門家によってではなく、伝統を共有し、経験の共同性に基づいて働く、全住民の自発的継続的な作業によって生みだされた共同芸術である」という定義が用いられている。 また、そういった「これまでの建築史の正系から外れていた建築」が、「今日の私たちのように自然を征服するものではない」と彼は着目している。つまり、産業社会が自然の生態系を破壊してきた、或いは、自然を利用対象としてきたといった見解をとる、先進工業国において70年代に広まったエコロジーの立場に立った視点をルドルフスキーは有しているのである。 過去の建築の模倣が衰退した時期に、「これまでの建築史の正系から外れていた建築の未知の世界を紹介することによって、建築芸術についての私たちの狭い概念を打ち破ることを目指している。」と述べられているのであるが、「建築家なしの建築」といった文脈の中での、「建築家」は、それまでの近代建築を支えてきた理念、規範を支えてきた「無名」ではない「官僚的」で分業的な専門家的「建築家」であり、そういった近代建築の行き詰まりのなかで、ルドルフスキーは、自然や、共同体などを含めた、新たな「建築家」の概念を提示したのである。「庶民の生活」の場として、いわゆる「未開の地」ばかりにフォーカスが当てられるのは、それまでの反動であるとともに、彼の提示が近代批判の性格を帯びているからこそ、「建築家なしの建築」のフィールド、そして、ルドルフスキーの視線は、工業化されていない場所、つまりルドルフスキーの言葉を借りれば「未開の地」や伝統といったトピックに向かうのである。 歴史的観点でみるならば、「建築家なしの建築」は、「ポストモダン」と呼ばれるような、伝統や地域性などの様々な要素を併せ持ち、多様化する建築の動きの一環であるとも考えられる。 ここまでで、「近代批判としての“素人”」というこの章のタイトルの意味合いがある程度明らかになったはずだ。次では、そのような批判が実践に移されているということに注目したい。 *クリストファー・アレグザンダー「パターン・ランゲージ」について 社会的労働の分業ないし分割の有様は、建築、都市計画において、専門家と一般人、そして政策施行者と施行される者の分断として特に垣間見られるのだが、クリストファー・アレキサンダー(1936年にウィーンで生まれ、数学、建築を修め、現在はカリフォルニア大学バークレー校環境デザイン学部建築学科教授に就いている)の都市、建築計画の理論においてもまた、そういった分業的な専門家である建築家は事実上否定されている。 「これを活用すれば、隣人とともに自分の街や近隣を改良したり、家族とともに自宅を設計することができる。また、関係者と力をあわせて、オフィス、作業場、学校のような公共施設も設計できる。」と彼自身も述べている通り、彼のパターン・ランゲージと呼ばれる理論は一般の人々の建築設計や、或いは彼らが専門家と協働作業する際の手引きとなるのである。そして、その手引きに沿うことにより、一般の人々、言い換えるところの当事者たち自身は、直接に参加して、街や建物をつくり成し得るのである。イヴァン・イリイチは、ヴァナキュラーな建築を、風土をともにする人々が生活の営みのなかから生成してくるものとして把握していたが、それは、パターン・ランゲージのテクスト的な建築、都市の捉え方と通じている。 アレキサンダーのそういった理論の重要な点として、「都市はツリーではない」(1965年に発表された論文)に代表される、都市の「セミ・ラティス(semi−lattice)」的な、様々な要素が連関し合いながら構成される構造がある。彼による方法論の著述のなかでは、コルビュジェのテーゼ「住宅は住むための機械である」に対してのアンチテーゼがちりばめられているが、それは彼が言うところの「人間中心の環境を作り出すような生産プロセス」、「建築を人間的な方法で形にするプロセス」、「つくること自体が人間的行為となり、かつ、家族や建設に関わる人々に直接つながったプロセス」への希求の結果なのであろう。 加えて、注目すべきは、近年、彼が設計と施工に一貫して携わる役割をする「アーキテクト・ビルダー」という概念を提唱しているという点である。(近代において建築のプロセスは、設計と施工の分離という形で進んできた。)彼は、その原則として、「アーキテクト・ビルダー」が「建物のこまから設計に責任を持つとともに、家族が実際の設計に密接に関わる事を可能にします。」と述べていたが、すなわち、パターン・ランゲージが、生成(becoming)の視点から、近代の建築家像を否定し、建築する(構築する)主体の拡散(脱構築)を促したのに対し、これらは再び建築という作業の主体性を再考する(再構築)試みであると考えられる。 また、アレグザンダーの理論においては、有機的な「パターン」、言い換えれば建築が、それぞれに当事者たちの間の、或いは家族と「アーキテクト・ビルダー」間のコミュニケーションによって織り込まれていくという点にも注目すべきである。また、その文意で、繰り返せば、彼が新たな「専門家」像を提唱したのに意義があるのである。 *むすび 「リヴァイアサン」でホッブスは、自然状態を、言い換えれば国家、社会が成立する以前に想定される人間の状態を「万人の万人にたいする闘争」の場と表していた。国家統治権力の正当性が論じられるのである。そこには闘争を引き起こすような、人間の自己保存を発端にする様々な力と、その闘争状態を回避するための国家の権力から成る二つの力の拮抗があるのだが、そういった個人的な力と社会的力の衝突は、自由と平等の関係と同じように必然である。一方で、自己保存が「生物が自己の生命を守り発展させようとすること(広辞苑より引用)」という辞書的な意味を持っているように、人間の存在はそれなしでは成り立たない。 要は、どのような構造的秩序がすでにあり、どのような秩序を打ち立てるかという事だ。民主主義は、デモス(民衆)とクラティア(支配)に由来するように、民衆が決定へ参加する民衆の支配のあり様である。そして、市民とは、「公共性の形成に自律的、自発的に参加する人(広辞苑より引用)」であり、また理性に照らされた自由、平等な人々であるはずだった。しかしながら、マルクスは、その内実は階級支配が存在するといった。そして、「イデオロギーの終焉」を迎えたのだろうにせよ、また、明確な階級対立構造が可視化されていない状態にも、資本主義の諸矛盾は依然として存在しているからこその言説が、例えばFrederic Jamesonの「計画消費の官僚社会」や、「テクノクラシー的全体支配」、「商品こそ時代独自のイデオロギー」などといったフレーズがあるのだろう。自律性を求め、疎外から逃れんとする動きは多くあった。近代批判としての「素人」もそれに他ならない。これまでの文脈に当てていえば、「素人」の自己保存の力で「セミ・ラティス」を生成する、平和な「闘争状態」への希求のパースペクティブである。それは決定への参加という意味で民主主義の再考といっていい。 70年代以降の資本主義経済のキーワードが「情報化」或いは「脱工業化」、「グローバル化」として語られるのなら、「ヴァナキュラー」はそれへの明確なアンチテーゼかつ即応であり、またそこでの「素人」もその一環であった。また、前述したように消費社会の到来は、「素人」に、「過剰」の「濫費」の出番がまわっていたことを華々しく示した。私が、前回のゼミ論文の「キッチュについて 〜「俗悪」をめぐる考察〜」で示したように、「趣味」の「素人」がもはや素人面してはいられなくなっていたということだ。つまり、今まで述べてきたのとは別の角度からも「素人」が要請されていたという事だ。 では、それを踏まえたうえで、なぜ「素人」かの問いに対してもう一度繰り返して言えば、近代批判においては、大杉栄が「征服の事実」を眼前にして「生の拡充」そして「生の充実」を想定して「美はただ乱調にある」と言い放った気分と共に、平和な「闘争状態」が再考されているということだ。 付け加えて述べれば、私はアウトサイダーアートや大衆芸術が、それまでの美術の限定を超える物として注目されたのも、仙台メディアテイクの「公共性」への取り組みも、また「素人」の時代の産物だと考えている。ここでは、「素人」の定義はおぼろげで漠然としすぎてはいるが、なにか普段感じている事を追ってみたかったのだ。 ともかく実際のところ、私がこれまでゼミでやろうとしてきた事。それを突き動かしていたのは、即ち、もやもやとしていた憂鬱感、疎外感、虚無感、そして問題意識に、言葉を与えてその輪郭をあらわにし、断罪してやろうという、相手はどこだという、青臭い衝動だった。そして、それは、そのなかにも英雄や模範を、方法論を求める態度を伴っていた。 それは、あのバブル崩壊後に多く出された「本当の豊かさ」を問う提示と同じ類だったといっていいのかもしれない。そんな検証が多く為されて数年が経った今でもあぐねている私は、批判にただ陶酔しているだけではないだろうかという問いを繰り返す。一体何がしたかったのか、想定された問題は一体なんだったのかと。時代の感性はとうに動いているのではないかと。 ところで、今回の論文は一方で都築響一の思想性にふれようとする試みでもあった。編集者として美術や建築、デザインの「良い趣味」に若くして関わり、ライフスタイル雑誌の創成期に位置していた彼が、なぜここにきて批評家から「悪趣味の探求者」と表されるような仕事をしているのかという事だ。秘宝館を特集して現代美術として披露し、また東京に住む「ありのまま」の若者を追った彼の態度は、まさに今回の論文のテーマ、「変態」と「素人」なのである。今回の論文で記したのは、一方で彼の思想性や方法論の私が考えるところの背景であり、つまりなぜ「変態」か、なぜ「素人」がという問いである。 ここで、現代のアナキスト、都築響一の一面を覗かせる文章を、「賃貸宇宙」の序から引用したい。 「・・・世の中にはたくさんの“エライ”と“ダメ”の基準がある。昔はクルマに乗っている人のほうが、自転車に乗っているやつよりエラかったし、スーツを着ているほうがジーンズにTシャツよりエラかった。いまでは下手な高級車を乗り回してもまともな商売に思われないだけ出し、スーツより高いジーンズだってある。漫画に詳しいやつのほうが、哲学に詳しいやつよりモテるかもしれない。そういうのはエラいダメでなく、すききらい、このみの問題にすぎない、みんなわかってきたのだ。(中略)いまよりいい洋服を、クルマを、部屋を、家を手に入れるためにがんばって勉強し、がんばって働けと、僕らはずっと教えられてきた。親からも、学校からも、テレビからも。そういうのを“向上心”というのなら、そんなものひとつも持たないまま実に楽しく、居心地よく毎日を過ごしている人たちがどれほど多いことか。(中略)フェラーリを乗りまわしても、ママチャリを漕いでも同じくらい頬にあたる風が気持ちよくて、プール付きの邸宅でも三畳ひと間の下宿でも、同じくらいにさわやかに目覚めれたら、それがもしかしたら“サトリ”といのかもしれない。」 多分に私はその「サトリ」が欲しかったのだろう。しかし、あぐねている。イタリアの洋服会社ベネトンの「YOU ARE WHAT YOU BUY」とパルコの「NO MORE IMAGE」という数年前のキャッチコピーがあるのだが、それらが吐露するのは、タバコ会社の「吸いすぎに注意しましょう」や、金融会社の「借りすぎにご注意ください」と同じように、例えば肺ガンの、例えば自己破産の問題が明瞭に顕在化してしまったという段階と、自己欺瞞のような相対化をして配慮しなければならない「お客様」の有象無象の力といったような二重性である。とにかく、今いえるのは、とりあえずは快楽に正直たれ、ということだ。 参考文献 「ユリイカ 宮武外骨特集」青土社 (松沢吾一著「変態の探求 〜西の外骨、東の北明〜」、神谷忠孝著「ダダイスト宮武外骨」、川村邦光著「ワイセツの詩学/政治学」) 「性の猟奇モダン」秋田昌美著 青弓社 「猟本漁奇」斉藤夜居著 愛読者クラブ発行所 「江戸のエロス」 新人物往来社 「肉体の文化史」 スティーヴン・カーン著 喜多迅鷹、喜多元子訳 「知への意志」ミシェル・フーコー著 渡辺守章訳 新潮社 「フーコー 知と権力」桜井哲夫著 講談社 「別冊 宝島 20世紀の性表現」 伴田良輔著 宝島社 「身体の零度」三浦雅武士著 講談社 「日本の下層社会」 横山源之助著 岩波書店 「近世暴動反逆変乱史」 梅原北明偏 株式会社海燕書房 「明治性的珍聞史」梅原北明偏 「シャドウワーク 生活のあり方を問う」 イヴァン・イリイチ 岩波書店 「専門家時代の幻想」イヴァン・イリイチ 新平論 「建築家なしの建築」バーナード・ルドルフスキー著 渡辺武信訳 鹿島出版会 「パターン・ランゲージによる住宅の建設」 C・アレグザンダー他著 中埜博監訳 鹿島出版会 「現代建築」同時代建築研究会著 新曜社 「日本の名著 大杉栄」 中央公論社 「バタイユ」 湯浅博雄 講談社 「賃貸宇宙」都築響一 筑摩書房 「公共性」斉藤純一 岩波書店 |